マンノウォー

マンノウォー

アメリカの誇り

1917-1947

20世紀のアメリカ競馬界でナンバー1の名馬との言われるマンノウォー。当時のアメリカでの人気は絶大で、『アメリカの宝』とも称えられた。

生産国 アメリカ

馬主 サムエル・D・リドル

戦績 21戦20勝

主な勝鞍

  • ベルモントステークス
  • プリークネスステークス
  • フューチュリティステークス

2歳時に一度だけ2着に敗れた以外は負けることのなく(レコード勝ち5回)、生涯で賞金249,465ドルウォ稼ぎ、アメリカではじめて20万ドルを稼ぎ出した馬となった。

Man o'War

  • -American Flag
    • -Flag Pole
  • -Crusader
  • -Clyde Van Dusen
  • -Hard Tack
    • -Seabiscuit
  • -月友
    • -カイソウ
    • -ミハルオー
    • -オートキツ
  • -War Admiral
    • -Mr.Busher
    • -Blue Peter
    • -Great Captain
  • -War Reric
    • -Relic
    • -Intent
  • -Dauber
  • -Pavot

三冠馬ウォーアドミラルが代表格。
その他にもクラシックホースを多数輩出しているが、種付制限のため産駒数が少なく、秀でているとは言い難い。

Fair Play Hasting Spendthrift
Cinderella
Fairy Gold Bend Or
Dame Masham
Mahubah Rock Sand Sainfoin
Roquebrume
Merry Token Merry Hampton
Mizpah
Outbleed

マッチェム系のフェアプレイとストックウェル系の繁殖牝馬の配合。
母父は英三冠馬で引退後アメリカに輸入されたものの、目立った産駒は残さなかった。そのため、母方に流れる逞しきアメリカ血脈が爆発して誕生したものと思われる。

種牡馬としては、ウォーアドミラル以外は大物は見られず、高い人気の割に実績は残せなかった。

Man o'War(軍艦)という名の赤栗毛馬

1917年。時は、第一次世界大戦の真っ只中。
ニューヨークジョッキークラブ会長であり、牧場主のオーガスト・ベルモント氏は軍馬購入の任務に志願し、パリに赴任することとなった。
そのため、牧場の馬をすべて売却することとなり、同牧場で生産されたマンノウォーも売りに出された。

サラトガスプリングセールでマンノウォーを見たフューステル調教師は同行していたリドル氏にこの馬の購入を勧め、5000ドルで購入させた。

生涯たった一度の不覚

2歳時、デビュー戦を6馬身差で圧勝したマンノウォーは、サンフォードメモリアルステークスにコマを進めた。
レースはマンノウォーとゴールデンブルーム、アップセットの3頭立て。
早々と後退したゴールデンブルームを尻目に、マンノウォーとアプセットのマッチレースとなった。マンノウォーより15ポンド(約6.8kg)軽い斤量で終始先行するアップセットに対し、残り1ハロンでマンノウォーが大きく外にふらつく不手際などもあり、結果半馬身届かずに敗れ去った。
アップセット(「番狂わせ」という意味)という名の馬に負けるとは、なんとも皮肉な話である。

しかし、その10日後の再戦では、終始1馬身差を保ったまま、きっちり完勝し、借りを返した。

2歳時は、10戦9勝という成績で、全米2歳最優秀牡馬の称号を得る。

無敵の3歳馬

マンノウォーの3歳はクラシック2冠目のプリークネスステークスから始まった。なぜ一冠目のケンタッキーダービーに不出走だったのかは不明だが、この頃のアメリカでは3冠に対するこだわりがそれほど強くなかったことは確かなようである。
このプリークネスステークスを圧勝した後、マンノウォーと戦おうと意欲を見せる馬は減り、少頭数のレースが続いた。
ベルモントステークスでも、相手はドンナコーナとの2頭立て。結果、20馬身差の圧勝に終わる。
最も圧巻だったのは、フッドウインクとの2頭立てとなったローレンスリアリゼーション(13ハロン)。スタートから2ハロンで20馬身差をつけたマンノウォーは、その後も差を広げ続け、ゴールした時には2ハロン(約400m)差をつけていたという。

また引退レースとなったマッチレースでは、前年にアメリカ史上初の3冠馬となったサーバートンを相手に7馬身差の圧勝劇を演じた。

生涯獲得賞金249,465ドルは当時の最高額で、アメリカ競馬史上初の20万ドル馬となった。

種牡馬としてのマンノウォー

マンノウォーの種牡馬としての人気も絶大で、初年度から当時最高の2,500ドルの種付料だったが、種付け依頼が殺到した。
また、年間種付牝馬数を25頭に制限したことも相まって、数年後には実質的な種付料は5,000ドルにまで跳ね上がっていたという。

種付け数が少なかったせいか、リーディングサイヤーには1926年の一度しか輝かずに、ベスト10にも入らない年が続いた。
セリに出されるマンノウォーの仔は値段の割には走らずに、17年間で45頭が取引され、売却総額405,365ドルだったのに対し、その馬たちの獲得賞金総額は196,188ドルだったという。
中には60,000ドルという当時史上最高額で競り落とされ他にもかかわらず、未勝利で引退したBroadway Limitedという馬もいた。

マンノウォーの種牡馬成績の不振は種付制限だけではなく、優秀な繁殖牝馬の不足ということも一つの要因として挙げられる。
当時のアメリカでは各州で馬券の発売が解禁となり、各地で多くの競走馬が取引された。そのため必然的に馬の質は低下し、良質な繁殖牝馬が入手困難な状況だったという。

百万ドルの馬

ベルモントステークスを買った直後、欧州のあるシンジケートが50万ドルでの売却話を持ちかけてきた。もちろん種牡馬として使うためである。
それと同時にワグナーという男が現金100万ドルを持参して、マンノウォーの購入を申し出たという。
十年後にネアルコが30万ドルで売却されたことを考えると、ものすごく破格の高値であるといえる。

しかし、馬主のリドルはそれらの話をあっさり断ったという。
このことで、『アメリカの宝が国外流出することを防いだ』として、彼の愛国心は褒めたたえられた。

日本におけるマンノウォー

戦前、マンノウォーの直仔・月友が輸入された。
月友は故障のため競走馬としては不出走だったが、種牡馬としてカイソウ・ミハルオー・オートキツの3頭のダービー馬を送り出している。

また、ウォーアドミラルの仔・ブリッカバックとリンボーも輸入されており、種牡馬としてそこそこの実績を残した。

Nasrullah x Man o'War

Royal Charger x Man o'War

マンノウォーはブルードメアサイヤーとして実績を残し、ファロスの直仔(特にナスルーラやロイヤルチャージャー)との相性が抜群によかった。