| Nearco | Pharos | Phalaris |
| Scape Flow | ||
| Nogara | Havresac | |
| Catnip | ||
| Mumtaz Begum | Blenheim | Blandford |
| Malva | ||
| Mumtaz Mahal | The Tetrarch | |
| Lady Josephine | ||
| Canterbury Pilgrim 5x5 / St. Simon 5x5 | ||
2歳の6月のデビュー戦3着後、いきなり伝統レース”コヴェントリーステークス”に出走。このレースを大楽勝で勝利する。3歳最高峰レース・ミドルパークステークスでは牝馬に首差の惜敗をしたが、コベントリーステークスのレースが評価され、この年の英最優秀2歳牡馬に選ばれた。
3歳になり、クラシック初戦の2000ギニーでは本命に推されるも気性の悪さが災いして4着に敗れる。
続くエプソムダービー3着、秋のセントレジャーを6着と結局はクラシックを取ることはできなかった。
これらのすべては気性の悪さが出た結果で、卓越したスピードも十分に発揮できないまま引退することとなった。
ヨーロッパ最大のオーナーブリーダー、アガ・カーン3世の配合理論『ファラリス系のスピードとブランドフォード系のスタミナの融合』をもとの生産されたナスルーラであったが、アガ・カーン3世はナスルーラの気性悪に嫌気がさしていた。
おまけに、一流馬を多く揃える彼の牧場にあっては、ナスルーラは決して一流とは言えず、期待もされずに引退した年の秋にはアイルランドのジョセフ・マグラスに売却される。
ヨーロッパでのナスルーラの種牡馬成績はそれほど良かったわけではなく、ごく平凡なものであった。
しかし、ナスルーラ産駒のヌーアがアメリカに転戦し、当時の三冠馬・サイテーションを3戦連続打ち負かすと、一気に注目をあびることとなる。
ヌーアの活躍にいち早く目をつけたのは大牧場主、アーサー・B・ハンコックであった。
彼がナスルーラの購入に動くとジョセフ・マグラスは値段を釣り上げ、容易に売ろうとはしなかった。結果、37万ドルという非常な高値で売買が成立した。
※37万ドル=当時のレートで1憶3000万円程度
ちょうどこの頃、アメリカ競馬は早熟性とスピード優先路線に切り替わり始めていた。
凶暴なまでに激しい気性が激しい闘争心となって、優れたスピードと瞬発力に合わさって伝わることで、仕上がり早のスピード馬を多く輩出する結果となり、アメリカでの大成功を導くこととなる。
アメリカでは、「ナスルーラの牡駒は、競走成績など無関係に種牡馬として売り出せる」といった時代があった。そのため、ナスルーラの牡馬が産まれると牧場では大喜びだったらしい。
ナスルーラは、ロンドンのロイドとの間に60万ドル(約2憶1600万円)の生命保険がかけられていた。
当時アメリカでは、種牡馬の年齢が20歳を越えると支払われる額が半額になるという習慣だったが、ナスルーラの死は19歳のその契約期限ギリギリであった。
19世紀半ば、西部インド(現パキスタン)の一土候国にナスルーラという首長がいた。
ナスルーラはマホメットの後裔で、ひどく交戦的な首長として知られていた。在世中、アフガニスタンやコーカンド、ウズベックなどの近隣諸国をしばしば侵略し、略奪をほしいままにおこなった。
また、残忍な性格で、冒険旅行中の英国人を拷問にかけ、絞殺してしまったこともあり、イギリスでの評判は最悪であった。
インド人である馬主のアガ・カーンが、性格の悪さを見かねてこの名前を付けたとも言われている。
ナスルーラ系の種牡馬にプリンスローズ系の繁殖牝馬の相性がよく、ミルリーフ・セクレタリアト・リヴァーマンなど、名を挙げるときりがない。
ナスルーラのスピードをプリンスローズのスタミナが補うため、距離にも対応できる産駒が多く、牝系にスタミナ色が濃い場合はミルリーフやセクレタリアトのようなスタミナ型の馬も生まれる。
日本国内での配合例は少なく、成功例はない。
シアトルスルーやロイヤルスキー、サクラローレルなどがこの配合。
この2頭は親子関係になるため、当然ナスルーラのクロスが存在する。
ネヴァーセイダイなどが、この配合。
影響力の強いナスルーラのスピードとマンノウォーのスタミナがうまく融合。