リボー

リボー

フェデリコ・テシオの遺児

1952-1972

競走馬としての16戦でつけた着差はほぼ100馬身。そんなイタリアの怪物は、種牡馬としても世界を席捲した。

生産国 イギリス

馬主 インチーサ・デッラ・ロケッタ侯爵

戦績 16戦16勝

主な勝鞍

  • 凱旋門賞(2回)
  • キングジョージ6世&QES
  • ミラノ大賞典

イタリアを主戦場としながらも、英仏の大レースを制したフェデリコ・テシオ最後の産駒。
16戦無敗、そのほとんどが圧勝というレースぶりはこの馬の圧倒的な強さを物語っている。

Ribot

  • -Ragusa
  • -Tom Rolfe
  • -Arts and Letters
  • -Molvedo
  • -Prince Royal
  • -Graustark
  • -His Majesty
  • -Ribocco
  • -Ribero

供用当初はイタリアで種付けを行い、その産駒はヨーロッパ各国で活躍。1963,67,68年に英リーディングサイヤーを獲得する。
1960年からはアメリカの牧場にレンタルされた。

Tenerani Bellini Cavaliere Darpino
Bella Minna
Tofanella Apelle
Try Try Again
Romanella El Greco Pharos
Gay Gamp
Barbara Burrini Papyrus
Bucolic
St.Simon 5x5

父系はイタリア競馬のテシオ生産馬であり、母馬も二流繁殖牝馬として競り落とした馬である。
このような配合からリボーのような名馬を作り出したのは、ひとえにテシオのマジックとしか言いようがない。どちらかというとスタミナ系種牡馬×スピード系牝馬の配合となるが、種牡馬・繁殖牝馬ともにリボー以外の目立った実績がないため、そのあたりは決めつけられないが…。

産駒には豊富なスタミナと底力を伝える反面、気ムラな面も多く、失敗のリスクも伴う。この気ムラな特徴は孫(仔の仔)にまで受け継がれたため、リボーの特性を中和する配合での成功例が多い。
そのため、後継に一流種牡馬が誕生しにくい結果となってしまった。

二流牝系から生まれた名馬

母ロマネラの血統はお世辞にも良いとは言えず、リボーの母方祖母となるバーバラブリーニはパパライスの仔というだけの理由で350ギニーで買われてきた馬である。(パパライスの父はテシオの一番のお気に入り馬のトレーサリー)
そのバーバラブリーニにテシオの持ち馬のエルグレコをつけて生まれたのが、母ロマネラである。
この牝系は活躍場が皆無で、8代遡ってようやくクラシック馬にたどり着く。

しかし、ロマネラは2歳時に伊最高峰のクリテリウム・ナチョナーレなどを勝ち、5勝を挙げた。残念ながら脚の故障で2歳末での引退を余儀なくされたが、繁殖に上がってもまずまずの良績を残した。

リボーは3代にわたってテシオによる生産馬(もしくは購入馬)で占められている。
このころの牧場ではありがちに思われるが、頻繁に馬の入れ替えを行い、いつも最小限の馬だけしか手元に残さなかったテシオには奇跡的ともいえることであった。
まさしく、リボーはフェデリコ・テシオの生涯の集大成とも呼べる馬なのだ。

生涯唯一の苦戦・グランクリテリウム

フェデリコ・テシオは、リボーのデビューの2か月前になくなっている。生涯最高の競走馬を自身で見ることなく亡くなったことで、リボーはテシオの盟友・インチーサ・デッラ・ロケッタ侯爵の持ち馬となった。

デビューから2戦を難なく勝利したリボーは伊2歳最高峰レース・グランクリテリウムに出走。
このレースにおいて距離への不安を感じたカミッチ騎手はスタート直後から行きたがるリボーを無理に抑えこみ、ついにはリボーの走る気を損なってしまった。
その結果、勝つには勝ったものの2着にはアタマ差という辛勝だった。
このレースが生涯唯一の苦戦と言われている。

クラシック未登録、照準を凱旋門賞に。

生まれつき体の小さかったリボーは牧場での期待も薄く、それほど見込まれた存在ではなかった。
そのため、テシオ夫人の意向によりクラシック登録されなかったと言われている。

クラシックへの登録がなかったため、陣営はテシオの悲願だった『凱旋門賞』に照準を置き、調整された。
春にエマヌエーレフィリベルト賞、夏にブレンボ賞をともに快勝した後、凱旋門賞の前哨戦としてベナサ賞に出走した。このレースには伊セントレジャー馬のデレインが出走したが、全く寄せ付けずに10馬身差をつけて完勝した。

凱旋門賞では、好位を追走後、最終コーナーで先頭に立つと2位以下を3馬身突き放す完勝で勝利を手にしている。
しかしこのレースにおいては当時世界最強と言われたフィールドレイクやメルドなどの馬が出走しなかったため、リボーの実力がそれほど評価されることはなかった。

その後、再びイタリアで圧勝劇を繰り返すし、翌年今度はイギリスに遠征してキングジョージ6世&クイーンエリザベスSを制するも、やはり有力馬不在たった。ただ、このレースを制することで、当時イギリスでは全く評価されていなかったイギリスで認めさせることには成功した。

生涯最高レース『凱旋門賞』

KG6世&QES勝利後、再び凱旋門に狙いを定めた陣営はピアツァレ賞を快勝し、本番に臨んだ。

この年の凱旋門賞には、アメリカからの遠征馬フィッシャーマン(ワシントンD.C.インターナショナル)やヴァテル(パリ大賞典)、ザラズーストラ(アイルランドダービー)など世界各国のクラシックホース7頭が出走するハイレベルなものとなった。

レースは、終始好位を追走し、最後の直線で抜け出すいつもどおりの展開で、終わってみると6馬身差の楽勝だった。しかも、カミッチ騎手は手綱をもったまま、一度をムチを使わなかったというからまさしく完勝であったのだろう。

この勝利で「リボーの連勝は相手が弱かったから」という誹謗を粉砕したことは間違いない。

生涯着差100馬身

デビュー戦のトラムスキオ賞を1馬身差、続くクリテリウムナツィオナーレを2馬身差で快勝後、グランクリテリウムはアタマ差の辛勝だったものの、3歳時の6戦は6馬身、10馬身、1馬身、10馬身、3馬身、15馬身。4歳時の7戦では4馬身、12馬身、8馬身、8馬身、5馬身、8馬身、6馬身差と、ほとんどのレースを圧勝で勝利したリボー。
生涯でつけた着差を足すと、『99馬身+アタマ』となる。

引退後は、英→伊→米へ

引退後、リボーは英国のウッドランド牧場で種牡馬として繋養されることとなった。これは、世界的に有名なこの牧場で種牡馬になることで、リボーの名を世界中に売り込み、世界中の良質な繁殖牝馬と交配させたいという目論見があったためだと言われている。
しかし、イギリスにわたる際に国会前で抗議運動がおこり、そのためか翌年にはイタリアの牧場に戻ることとなる。
ところが、1960年の種付シーズン終了後の秋には今度はアメリカのダービーダンファームに5年で135万ドル(4億8600万円相当)+毎年イタリアの牝馬5頭と無料交配という条件で貸し出されてしまう。
その後、気性の悪さなどから渡航の保険契約がまとまらず再びレンタル契約が5年延長され、ついにヨーロッパにもどることはなかった。

当初のもくろみ通り、世界各国の牝馬と交配され、初年度は英12頭・米6頭・伊5頭・独3頭の牝馬に種付けしたという記録が残っている。
産駒が世界各国に散らばるということは、一カ国あたりの出走数が減ってしまうためランキング的には不利になるのだが、リボーについては、1963,67,68年の3度英リーディングサイヤーを獲得している。とくに67,68年はアメリカで繋養されながらイギリスでタイトルを取っている。

アメリカで繋養されながらも、ヨーロッパでの活躍場が目立つあたりはヨーロッパ競馬の方は合ったからに違いない。

イタリア4位

イタリア最大のスポーツ誌ガゼッタ・デッロ・スポルト誌は、”20世紀のイタリアのスポーツ選手”の第4位にリボーを選出した。競走馬がこれだけ高位に選ばれることは異例といってよい。

Ribot x Hyperion

グロースタークやヒズマジェスティ、アーツアンドレターズなどがこの配合。
双方スタミナ血統であり、重くなりがちな配合ではあるが、どういうわけか相性が良い。
また、グロースタークに関しては種牡馬になっても重いスタミナ血統との相性が良いことから、リボーにはスピードの血を必要としない何かを秘めているのかもしれない。

Ribot x Princequillo

トムロルフがこの配合。
ともにセントサイモンの子孫にあたり、こちらも重いスタミナ血統同士の配合。スタミナ偏重の重い配合であるにもかかわらず、相性が良い。