日本競馬史上2頭目の三冠馬/シンザン

日本競馬初の五冠馬

1961-1996

シンザンは、戦後初の三冠馬となり、さらに天皇賞・有馬記念を制して史上初の五冠馬に輝いた。

生産地 松橋牧場(浦河町)

馬主 橋元幸吉

戦績 19戦15勝

主な勝鞍

  • 日本ダービー
  • 天皇賞(秋)
  • 有馬記念
  • 皐月賞
  • 菊花賞

裏街道を連勝で走り抜け、関係者の期待を上回る走りで三冠を制したシンザン。生涯19戦15勝、2着4回。19連続連対は日本記録である。
出走した大レースはすべて勝利する勝負強さで日本競馬史の伝説となった。

シンザン

  • -ミホシンザン
  • -ミナガワマンナ

代表産駒はGⅠ3勝のミホシンザン。骨折でダービーを断念し、幻の三冠馬と言われている。
他にGⅠ馬は菊花賞を制したミナガワマンナもいる。
多くの重賞勝ち馬は輩出したものの、GⅠ馬は2頭と寂しい。この2頭も後継種牡馬を残せなかった。

Hindostan Bois Roussel Vatout
Plucks Liege
Sonibai Solario
Udanipur
ハヤノボリ ハヤタケ Theft
飛龍
第五バッカナムビューチー Tournesol
バッカナムビューチー
Gainsborough 4x4

日本競馬初期に輸入され、多くの名馬を輩出したビューチフルドリーマーの牝系に、当時最高の種牡馬ヒンドスタンを合わせた配合。ヒンドスタンのスピードと牝系のスタミナがうまく合わさり、オールマイティーな馬が誕生した。

ゲインズボローの4x4ラインブリード配合で、ヨーロッパの血と日本の血が混ざり合って活性化され、また母方に累進交配されていたセントサイモンがヒンドスタンのセントサイモンを合わさって、逞しさと勝負強さを増したと思われる。日本国内種牡馬の最長寿記録を持つ。

二番手評価の2歳馬

『骨格が逞しく、丈夫そうな馬』
それが武田調教師の第一印象だった。
小さい牧場ではシンザンの動きの鈍さが解消できないと悟った武田調教師は、シンザンを荻伏牧場に預けて基礎トレーニングを積ませたものの、それほど良化は見られず、二歳の入厩時になっても身体は石のように硬かった。

この年の武田厩舎の若駒は、良血馬オンワードセカンドを筆頭に、デビューから4連勝のプリマドンナ、2連勝のソロナリュウと駒がそろっていた。
そんな中、調子の上がってこないシンザンは見劣っていたと言わざるをえない。
ただ、故障しているわけでもない馬をいつまでも出走させないわけにはいかず、勝てなくてもいいという気持ちで11月の新馬戦に出走させることになった。

デビュー戦、出走馬の頭数が揃うも目立った馬は存在せず、シンザンは一番人気に推された。
スタート直後から先頭集団に取りついたシンザンは、3コーナーで先頭に立つと、そのまま力で押し切り、2着以下に4馬身差を付けて快勝した。
レース後、鞍上の栗田騎手は「先行でき、奥行きがある」と評価したものの、当の武田調教師の評価はそれほど上がることはなかった。

2戦目は、オープン戦ながら5頭立てで目立った馬がいず、ハイペースの展開を難なく差し切り、連勝。
次走、阪神三歳ステークスへの出走も可能となった。
※当時は数え年だったため、現2歳を”3歳”と数えた。

しかし、駒揃いの武田厩舎。
最有力なオンワードセカンドとプリマドンナを阪神三歳Sに登録し、シンザンを条件特別に回した。
その特別レースも、シンザンは2番手から楽に抜けだし、4馬身差の快勝。3連勝を飾った。
ちなみに、阪神三歳Sは、プリマドンナが勝利した。

実力を見せつけた、3歳春

武田調教師の評価が一変したのは、5戦目のスプリングSのことであった。

それまで4連勝してたものの、一流馬との対戦はなく、スプリングSでも6番人気と評価は上がらなかった。
オンワードセカンド以外の有力馬が一同に揃ったこのレース、武田調教師も勝てるとは思っていなかった。武田は、関西で出走するソロナリュウに付添い、シンザンの走る関東へは行かなかったことでも期待の薄さがうかがえる。
シンザンはスタート直後から先頭集団に取りつくと、3コーナーでいったん中断に下がり、直線で一気に抜き去るという豪快なレースで優勝した。期待を裏切る見事な快勝だった。
この一報を聞いて、武田調教師は慌てて東上。
「お前を本当の実力を知らなかった。本当に悪かった」と、シンザンにあやまったという。

さて、皐月賞。
シンザンは、一躍本命に躍り出た。
調教師も、オンワードセカンドを他レースに回し、シンザンで勝負に出た。
このレースもスタート直後に先行集団に取りついたシンザンは、最後の直線で抜け出すとそのまま押し切るレースで勝利した。

このレース後、ダービーまで休ませることを主張した栗田騎手と一月半の間隔を空けることを不安視した調教師とで対立し、仕方なく出走したオープン戦で初黒星を喫した。
これは、調整レースということで10kg増の太めで出走したことと、馬に負担をかけないため消極的なレースをした結果である。

それでも、ダービーは断然の一番人気となった。
スタート直後からいつものように先頭集団に取りつくと、このレースも最後の直線で一気に抜け出して、優勝した。

険しき三冠ロード

三冠への最大の難関は、”夏をどのように乗り切るか”である。
涼しい北海道へ放牧に出してもいいが、目が行き届かないことに加え、放牧から帰厩後の体調変化が気にかかり、結局夏を京都で過ごすことでになった。
馬小屋に空調などないこの時代、氷を吊るして涼を取ろうと試みるも、シンザンは夏バテしてしまった。
体調は秋になっても回復せず、菊花賞に向けた2戦を連続2着と不本意な結果で終えた。

他のライバル馬がトライアルを快調に勝ち上がる中、11月になってようやくシンザンの体調が回復。
なんとか菊花賞には間に合った。
前二走の不甲斐なさもあり二番人気となった菊花賞は、いつものようにスタート直後から先頭集団に取りつくと、そのままレースは流れた。一番人気となったウメノチカラは終始シンザンをマークして、シンザンの後ろに取りついていた。
3コーナーで双方が動き出すと、4コーナーを回ったあたりでシンザンが先頭にたち、その直後のウメノチカラも追いすがった。
そして、最後の直線。
ウメノチカラは必死で追い出すもその差を詰めることはできず、シンザンは2馬身半の差を保ったままゴールを駆け抜けた。
史上2頭目の三冠馬たんじょうである。

そして、五冠へ

菊花賞後、次の目標を天皇賞(春)に定めたものの、休養中に蹄の炎症や腰痛を発症し、天皇賞は断念せざるをえなかった。
体調が整わぬまま出走したオープン戦を連勝し、宝塚記念にファン投票一位で選出された。
不良馬場となって不安視された宝塚記念も6頭立てと頭数がそろわなかったこともあり、何とか優勝し春を終えた。

この年の夏も京都で過ごすことになったが、前年の失敗を踏まえて充分な対策を取ったため、再び夏バテになることはなかった。

秋は、天皇賞(秋)を目標にまずオープン戦を出走し、アタマ差で辛勝。
この直後、馬インフルエンザが流行し、移動禁止令が出されるなど思うように出走ができずに、やむをえず63kg背負わされる目黒記念への出走を余儀なくされた。

目黒記念を力で押し切って勝利したシンザンは、天皇賞では78%の単勝指示を受け、単勝1.0倍の一番人気となった。
ミハルカスの大逃げで始まったこのレースも、直線でシンザンが逃げ馬を交わすと、そのままゴールイン。快勝であった。

残すは、有馬記念。
当時、天皇賞~有馬記念の間隔は5週間であった。
ここで再び”有馬記念に直行させたい”騎手と”直前に中山の本馬場で追い切りたい”調教師の間で意見が対立した。中山の本馬場で追い切ることができないため、調教師はレースを使うことを主張した。
結局、有馬記念の1週前に単なる追い切り目的で出走させることになった。

レース出走を直前まで反対した栗田騎手はレースには乗らず、結果2着に終わった。
この日、栗田騎手は突然姿を消し、次の日の騎乗予定のレースになっても戻らなかった。
一説には、敗戦のショックで深酒し、倒れて病院に運び込まれたとも言われている。
このことが原因で戒告を受け、有馬記念に騎乗できなくなってしまった。

有馬記念はすべての馬がシンザンをマークした。
逃げたミハルカスが4コーナーでシンザンの進路を塞ごうと大外にコースを取り、シンザンは外埒まで追いやられた。そこに他の有力馬が押し寄せて、シンザンの進路は断たれたかにみえた。
しかし、シンザンは外柵との細い隙間を縫うように、しかし力強く抜けだし、完勝を収めた。

レース後、海外レースへの挑戦もささやかれたが、今後のことを考えて引退し、種牡馬となった。

生涯を通じて連対を外すことはなく、19戦連続連対という記録はいまだに破られていない。

シンザン鉄

シンザンの後ろ脚の踏み込みは異様に深い。
そのため、走行中に後肢の蹄が前肢の蹄にぶつかってしまい、後肢の爪を傷付けてしまうことが判明した。
このままでは競走馬としてダメになってしまうと考え、調教師は考えた。
ゴムテープや革ひもを巻いてみても、途中で取れてしまい効果がない。

そこで、後肢の蹄の爪先にスリッパのようなカバーをつけた蹄鉄を考案した。
これにより後肢の爪を傷めることはなくなったものの、今度は前肢のかかとが蹄のカバーで傷ついてしまう。前肢のかかと部分にも保護用の金属をT字にはめ込んだ。

この蹄鉄、通常の蹄鉄の2倍近い重さがあり、脚部への負担も大きかった。
しかし、それらのハンデをも克服して勝ち続けたシンザンは、まさに無敵だったのかもしれない。

武田調教師の追い切りを兼ねた出走

武田は”レースを一度使うことは、3度の追いきりに匹敵する”という考えを持っていた。

シンザンは使うたびに調子を上げると実感した武田は、レースを調教変わりに使っていた。
そのため、シンザンの4度の敗戦はいずれも大レース前のレースで、それほど強くない馬に負けている。これらのレースを上手く使うことでシンザンの調子を上げ、目標レースを勝ち取ったと考えると、まさに名調教師といえる。

しかし、馬券を買う側としては、調教がわりにレースを使われてはたまったものではない。

日本最長寿種牡馬

外国の輸入種牡馬が主流の時代。
内国産種牡馬の低迷を配慮し、シンザンの種付け料は破格の安さで設定された。

産駒の質も良く、計5度もレコードを塗り替えたスガノホマレや芝2000mで初めて2分をきったシルバーランドなど、中距離のスピード馬を数多く輩出した。
サイヤーランキングのトップ10にもたびたび入り、数多くの重賞勝ち馬を残したにもかかわらず、晩年になるまでGⅠクラスのレースでの勝ち馬を出すことはなかった。

しかし、シンザンが20歳になった1981年になってミナガワマンナが菊花賞を制し、『シンザン最後の大物』と称された。
その後、ミホシンザンが皐月賞・菊花賞・天皇賞を制し、シンザンの代表産駒となったが、既に高齢となっており、ミホシンザンの現役中に種牡馬として引退することとなった。

種牡馬引退後、35歳に老衰でこの世を去るまで、谷川牧場で余生を送った。